飲み会サッカー

 

 

 


春先から夏頃にかけて落研出身の新卒社員から「会社の飲み会は落研と比べてつまらない」「愚痴ばっかだ」「楽しくない」とのツイートが流れてくるのは落研という狭い世界の風物詩になりつつある。あの頃は楽しかった飲み会が疲れるものになってしまっていることを憂いているのだが、彼らは大きな勘違いをしている。

 

 

 

本来落研に酒飲みと言われるような人間は少数派だ。なぜなら酒を通さなくても面白いことが起きたり会話ができたりするから落研の人たちやその空気が好きになり4年間居座り続けるのである。そんな彼ら同士が集まってお酒を入れる時のほとんどは落語会の打ち上げくらいであろう。打ち上げは落語会と地続きと言ってもいい。自分のウケたウケない、誰かが面白かったトチったみたいな、その日で新鮮に揚げられた話題という魚が捌かれて打ち上げの席で調理される。そんなメインディッシュが明確であるからこそ、普段の日常報告みたいなゆるい会話も副菜のように添えられて丁度いい繋ぎにもなる。しかし、飲み会はその明確に話すことがなく達成感もない。目的が親睦を深めようとしたコミュニケーションのためのコミュニケーションならば疲れるし、なにも考えずに話してたら行き着く先は誰もが共感しやすい愚痴になるのは当然だ。落研だって目的のない飲み会は愚痴になりやすい(特に同期同士だと尚更)

打ち上げと飲み会は別物だと考えておくべきだ。

 


そうすると「いやいや、落研は愚痴すらもユーモアに包んでましたよ。それが楽しかったんですよ。でも職場の人たちはそれすらもないんです。」という、『社会人ユーモア無0論』にたどり着く。そこで考えたのだが、僕らはサッカーをしたいのに社会人らは球蹴りをしてることに腹を立てているのではないか。

落研の飲み会はゴールに向かってボールを蹴り進めていくサッカーだ。そこにはルールがあり、技術があり、戦術がある。時として仲間にアシストしてパスを出すことだってある。囲んだ4人席ぐらいの宅は人知れずチームとなるのだ。

しかし社会人の飲み会はゴールもルールもない。ないというよりは曖昧、なんとなくやってる感覚に近いのかもしれない。ただボールを蹴って、追いかけて、また蹴って……。そんなゴールのないただの球蹴りなんだから我々サッカー部は暇してならないのである。ルールを知らない人には自分がランクを下げて球蹴りに付き合うしかない。もしくは単独で視線を気にせずゴールを目指すかだ。もう人格形成されつつある上司先輩に我々のルールを教えることは不可能に近い。また後輩ができたからってそのルールを押しつけてもいけない。もう今からルールを覚えてもらうことを諦めた方がいい。ただの球蹴りならまだしも飲み会をボクシングかなんかだと捉えてる人もいるのだから。

 


では結局どうするか。飲み会に参加しない。これが一番だ。人生で飲み会がどれだけ自分の人生に影響を受けるか考えてほしい。たぶん人生を変える受動的な飲み会なんて存在しないはずだ。その分みんなとの飲み会に費やせばいい。ゲームはルールを知る者同士でないと盛り上がらないのだから。

そんな私は職場の飲み会に参加したことがない。いや、誘われたことない。そもそもそんな立場にいないいちアルバイトだ。毎日ラッキーと思いながら今日も速攻で自宅へ帰るのだった。

 

すいた